秋葉原ぼっちめし

秋葉原周辺の一人でも気軽に入れる飲食店を紹介するブログです。お一人様での秋葉原ランチや夕食のお店選びのお役に立てたら幸いです。

秋葉原のたい焼き屋4店舗まとめ

秋葉原のたい焼きまとめ

ちょっと小腹が空いたときにちょうどいいのがたい焼きです。

今日は秋葉原にあるたい焼き屋4店舗を紹介していきたいと思います。

でも、たい焼きの紹介だけだと一瞬で終わりそうなので、オマケでお店がある周辺地域の歴史なんかも少しだけ書いてみました。(お店の歴史じゃなくて周辺の歴史です。)

スマホだとちょっと重いかも。すみません。

 

くりこ庵 秋葉原店

「くりこ庵」の外観

万世橋交差点のセガ2号館と同じ建物にあるたい焼き屋です。

あんこやクリームのたい焼きだけでなく、期間限定や季節ごとのたい焼きがあるのが特徴。

秋葉原店ではポケモンのコイキングの形をしたコイキング焼きもあります。

この日は「コイキング焼き ミルクチョコレート」を購入しました。

普通のたい焼きより厚くてどっしり。食べてみると生地が厚くてフカフカで食べ応えがあるたい焼き(コイキング焼き)でした。

コイキング焼き コイキング焼き
店名 くりこ庵 秋葉原店
営業時間 10時00分~21時00分
住所 東京都千代田区外神田1丁目15-1

 

さて、この店のすぐ近くには万世橋があります。その万世橋の歴史についてです。

万世橋はもともと、筋違橋(すじかいばし)という名称でした。

筋違橋は今の場所ではなく、少し上流(昌平橋方面)のほうにありました。今のパセラのあたりです。

筋違橋は筋違門(筋違見附)へ通じる橋でした。

見附(みつけ)とは見張り番所のことです。江戸城の見附は結構な数があったようです。代表的な36の見附を挙げて「江戸城三十六見附」などと言ったりします。赤坂見附は地下鉄の駅名になっていますね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Sujikaibashi-Mon.JPG

江戸城三十六見附 - Wikipedia

上記写真の詳しい撮影日は分かりませんが、もしかしたら明治に入ってから筋違見附が取り壊される時の写真なのかもしれません。なんか工事中っぽいし。

この見附があった場所は現在は旧万世橋駅(マーチエキュート神田万世橋)になっています。

それにしても立派な門と見附です。今も存在していたら相当迫力があったでしょうね。

 

明治になって筋違見附が取り壊された後、その石材を使って筋違橋が作り直され、そのときに萬世橋(よろずばし)と命名されたようです。石造りのアーチ2連の橋だったため「めがね」という呼び方もされていたようです。

https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/download?id=0000000003-00007647&size=org&type=image&file=%2F%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%2F0412-C006.jpg

詳細 :東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ

 

その後「よろずばし」が次第に「まんせいばし」という呼ばれ方になってきて、現在の場所に橋を作るときに万世橋という名前になったようです。(元の橋は元萬世橋と呼ばれたようです)

その後、関東大震災後に現在の橋に作り直され現在に至ります。

 

めがねと呼ばれていたころの萬世橋(よろずばし)の親柱が神田明神に残されています。

神田明神の御神殿(メインの建物)の右側を進むと正面に祖霊社があります。

祖霊社の左側にある普段なら見逃してしまような細い通路を奥に行くとRPGの隠しほこらみたいなところが現れます。周りからは見えない場所にめっちゃデカイ彰忠碑が鎮座しているのでビビります。彰忠碑とは日露戦争戦没者の慰霊碑です。その彰忠碑の周りを囲んでいるのが元萬世橋で使われていた親柱(と高欄)なのです。

親柱とは橋の入り口にある柱です。大抵は橋の名前が書いてあります。

元萬世橋の欄干

 元萬世橋と彫ってあるのがわかると思います。「元」は後から彫ったんでしょうね。

 

セガのたい焼き

「セガのたいやき」の外観

セガ5号館(ゲームセンター)に入っているたい焼き屋です。

セガのロゴのたい焼き(セガロゴ焼き)などがあります。中身は多くの種類があり、イチゴ味や、チリドッグなどの珍しいものもあります。

また、過去には期間限定で初音ミクやラブライブのものもありました。

この日は「牛乳クリーム味」を購入。250円です。

生地は薄め。中身がたっぷり入っていて美味しい。

8種類ものセガロゴ焼きがありました。休日はもっと種類があったような気がします。

セガロゴ焼き セガロゴ焼き
店名 セガのたい焼き 秋葉原店
営業時間 11時00分~22時00分
住所 東京都千代田区外神田1丁目10-1

 

このセガ5号館付近には幕末ころに花街(芸者町)がありました。

幕末のころ、ペリーにビビった幕府が剣術などの武芸の訓練施設を竹芝や築地に作りました。その訓練施設を講武所と呼びます。

その後、軍備増強のために現在の水道橋駅付近(神田三崎町)に講武所を作ります。

その時にセガ5号館の隣あたりの幕府の土地を花街にして講武所の運営資金にしたという説があります。

この花街は、それほど大きなものではなかったようで、芸妓さんは86人という文献もあります。

娯楽業者の群 : 社会研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション

この本によると、「東京の花柳街の中で、最も、地味で、辛気で古典的」とボロクソに書いてあります。

今では芸妓さんに変わって、メイドさんが日本一どころか世界一集まっている街になりましたよ。

歴史は繰り返すというかなんというか。

参考:神田の伝説 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

たいやき神田達磨 秋葉原店

「たいやき神田達磨」の外観

末広町駅がある交差点角のたい焼き屋。

羽根付きたい焼きが特徴で、アンコとクリームの2種類があります。

あんこ版を購入しました。

この羽根をちびちび食べるのがいいんですよ。

生地は結構薄めで、あんこがたっぷりです。

下記写真はたい焼きの裏表を逆に撮ってしまってちょっと見栄えが悪くてすみません。気がついた時には食べ終わっていました。

神田達磨の羽根付きたい焼き 神田達磨の羽根付きたい焼き
店名 たいやき神田達磨 秋葉原店
営業時間 12時00分~20時00分頃
住所 東京都千代田区外神田6丁目14-2

 

さて、この店がある場所は現在は千代田区外神田6丁目ですが、以前は神田五軒町という名前でした。

神田五軒町の名前の由来は江戸時代に5軒の屋敷があったからのようです。

明治になってから一般の人が住むようになりました。(もちろん一般町民なので、細かく区画を分けて、現在のように沢山の家が出来ました)

幕末から明治にかけて日本中を駆け回り、様々な記録をして出版していた探検家の松浦武四郎(まつうら たけしろう)さんも晩年は神田五軒町に住んでいたようです。

この武四郎さんは「北海道」という名前の名付け親でもあります。

若い時(17歳)から全国を旅して様々なものを詳細に記録して本を書いたりしていました。今でいう旅行系ユーチューバーですね。

北海道(当時は蝦夷地)にも何度も行って詳細な記録をしたということで幕府からも依頼されるようになったそうです。

蝦夷地にいる役人や商人たちはアイヌの人たちに対して酷い扱いをしていましたが、武四郎さんはアイヌの人たちをリスペクトし、差別に反対し、同じ立場で接していたようです。

北海道という名前も最初は「北加伊道」という漢字でした。「加伊(カイ)」というのはアイヌの人たちが「自分たち」を差す言葉です。この名前からも武四郎さんのアイヌの人たちに対する思いが伝わってきます。

武四郎さんは役人や商人たちの不正や横暴を「東西蝦夷山川地理取調日誌」という本に実名で書いて告発したのですが、幕府が出版を許可しなかったため(当時は)世に出ることはなかったようです。

そんな武四郎さんが住んでいたあたりは、現在高級マンションになっています。先日、興味本位で値段みたら気を失いそうになりました。一番安い1LDKで6000万円ってw

 

鳴門鯛焼本舗 末広町店

「鳴門鯛焼本舗」の外観

妻恋坂交差点のところにあるたい焼き屋です。

スタンダードなあんこと金時いもの餡の2種類があります。期間限定のカスタードやさくら餡などもありました。

金時いものたい焼きとは珍しいですね。金時いもたい焼きを購入。

食べてみると、まさしく芋を食べている感覚。まったりとしていて美味しいです。芋好きにはたまらないたい焼きでした。

鳴門鯛焼本舗の金時たい焼き 鳴門鯛焼本舗の金時たい焼き
店名 鳴門鯛焼本舗 末広町店
営業時間 10時00分~22時00分
住所 東京都千代田区外神田6丁目3-6

 

さて、この店舗がある地域は外神田6丁目ですが、外神田6丁目の地図をみるとちょっと不思議な形をしているのがわかると思います。下記地図のオレンジ色の部分が外神田6丁目です。

西側(左側)の出っ張りはなんでしょうか。鳴門鯛焼本舗があるのも出っ張りの部分です。

なぜ縦に走っている昌平橋通り(都道452号線)で区切らなかったのでしょうか。

疑問だったので古い地図をみてみました。

https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/download?id=0000000013-00042357&size=org&type=image&file=%2F%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9B%B3%2F0461-006.jpg

詳細 :東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ

この絵図によると現在の昌平橋通りがクランクしています。屋敷に沿って道があるためこのような道になっているようです。(絵図の真ん中より少し左側の上部あたりです。この絵図は上が西なので反時計回りに90度回転して見てください。)

その他の江戸の絵図なども参考にしながら現在の地図に重ねると下記のようになります。

・オレンジ=現在の外神田6丁目

・紫の線=昔の道

・黒枠=屋敷(明治以降は神田五軒町・現在の外神田6丁目)

・緑枠=屋敷(明治以降は神田同朋町に編入・現在の外神田2丁目および6丁目)

参考:古地図 with MapFan ※この古地図MapFanは場所を指定してリンクを貼れませんでした。

 

こう見ると外神田6丁目が昔の道路の形状や屋敷と合致しているのがわかります。

明治になり町民が住みはじめて、南北に通っている道の東側が神田五軒町。妻恋坂より南が神田同朋町になったようですね。

 

じゃあ、このクランクしている道がいつまっすぐになったのか。

古い地図を時系列で見ていたら、関東大震災前までクランクしており、震災後に現在の道路と同じ様にまっすぐになっていることがわかりました。

参考:今昔マップ ※左が震災前、右が震災後(スマホ縦画面の場合は上が震災前、下が震災後)

 

このことから、震災復興のときに道路を真っ直ぐに整備したのだと思われます。現在の昌平橋通りの妻恋坂交差点付近は道が少し斜めになっていますが、昔はクランクしていた名残だったんですね。

直角(L字形)の道が大好きマンなので道路整備の都合とはいえ少し残念です。

真っ直ぐにしたときに神田五軒町が分断され、一部が昌平橋通りの西側になってしまったのでしょう。

同じく、蔵前橋通りも西に延伸して神田同朋町も分断されてしまったのだと思います。

 

その後、昭和39年に神田五軒町と神田同朋町の一部が外神田6丁目になったようです。なぜ神田同朋町の全域が外神田2丁目じゃなくて一部だけ6丁目になったかは判明しませんでした。

 

おわりに

甘いたい焼きだけでなく店によってはおかず系のものもあったりするので、甘いのが苦手な人でも楽しめると思います。

たい焼きなら店の前で食べても大丈夫だし、公園なんかで食べてもいいと思います。(路上で食べるときは通行人の邪魔にならないようにしましょう。公園などで食べるときはゴミは持ち帰りましょう)

どれも1個200円前後なので気軽に買えると思いますし、差し入れやお土産なんかにもいいかもしれません。

それぞれ特徴があるたい焼きばかりなのでお気に入りのたい焼きを見つけてみてはいかがでしょうか。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

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■訪問日時

  • 2020年2月5日(水) 12時00分 くりこ庵
  • 2020年2月6日(木) 12時00分 セガのたい焼き
  • 2020年2月7日(金) 17時00分 たいやき神田達磨
  • 2020年2月7日(金) 17時00分 鳴門鯛焼本舗

店舗情報などは訪問時の情報です。これらの情報は変わる可能性があります。